メンバー全員がシャコタン誌の表紙を飾る! 伝説の成田レーシング PART.2

その名を全国に知らしめた
成田レーシングのヒストリー

成田レーシングの鷹森氏が製作した星野シルビアシルエット。カラーリングやステッカーも忠実に再現している。(写真提供:ちばからきたの)

青木さんインタビューの第二弾は伝説の改造車チーム「成田レーシング」について。主要メンバー全員がヤングオートの表紙を飾り、その名を全国に広めた伝説のチームだ。後半にはチバラギの起源、タケヤリマフラーの衝撃、シャコタンの魅力なども聞く。

1989年のグラチャンに参戦した青木クラウンシルエット。88年はワークス仕様だった。オートワークス・チューニング写真集No.8より。

青木美男PROFILE
1968年2月生まれ、53歳(2021年5月現在)。生まれも育ちも千葉県成田市。1980年後半の改造車の世界を引っ張り、そして盛り上げてきた有名チーム「成田レーシング」主宰。これまで作ってきた改造車は30台以上。現在はボディチューニングファクトリー「NRS」(成田レーシングスペシャルズ)代表。根っからの改造車好き。クルマ作りに対する熱い気持ちと飽くなく探究心、そしてそのズバ抜けた行動力で「日本一有名なシャコタン乗り」と呼ばれた。「青春の9割以上が改造車」と言い切る男。現在でも自身の秘密工場で改造車を作り続けている。

お互いに刺激しあっていた成田レーシング

・成田レーシングの結成について教えてください

成田レーシングも最初は名乗ってなかったんです。俺しかいなかったですから。自分で好きでやってて。同級とかいましたけど、チームっていうよりはグラチャンに一緒に行く仲間って感じでした。20歳の頃に地元のPAで黒いセリカワークス張ったシルビアが止まってて。それがあとでシルビアのシルエットを作る鷹森なんですけど。歳もタメで家も近いこともわかって、つるむようになったんです。

井戸端は地元は銚子なんですけど、仕事で成田に来てて。ダクトとか入れたZ31に乗ってて、会いたいっていうから会ってみたら、やっぱタメですごい改造車好きで意気投合して。そんで「成田レーシング」やるべってすぐにカッティングシートを作ったんですよ。ハッピも作って。最初は他にも数人いたんですけど、メンバーが入れ替わったりて、最終的に残ったのが鷹森と井戸端と俺の3人でした。

なんか三人とも共通するものがありましたね。クルマで何かやってやろうみたいな。井戸端はスポーツカーが大好きでフェアレディZで始まり、Zで終わりました。最後にケーニッヒやって燃え尽きましたね。たぶんやっている最中は俺より熱中してましたよ。一番熱かったのはアイツだったかも。ヤングオートの表紙(1989年2月号)にもなっています。

鷹森はシルビアのシルエット(ヤングオート1993年3月号表紙車)ですね。その前に910ブルーバードのシルエットも作ってて。本当はトミカとシルビアと並んで走りたかったんですけどね。1年違うんですよ。鷹森は最初やる気なかったんですけど、トミカ見たらやりたくなっちゃったみたいで。だからお互い刺激しあってたんです。同じチームで同じ時期に作ってて、コイツにだけは負けないぞってのはありますよね。

表紙の右下が青木さんが憧れた出山スカイライン。裏表紙にはレパードのオープンも。オートワークス・チューニング写真集No.8より。

あとメンバーじゃないんですが、遠藤さんという成田レーシングの守護神みたいな人もいます。FRP工場の社長でFRPの加工のやり方をいろいろ教えてもらいました。年齢もちょっと上で兄貴のような感じで。もし遠藤さんに会ってなかったら、間違いなくベニヤ板から卒業できなかったと思いますよ(笑)。今の仕事ができているのも、当時教えてもらった技術があるからで、感謝してます。

オープンのレパードをみんなで一緒に作ってた時は、毎日ほか弁で、俺たちは「ほか弁レーシング」だって笑ってました。いつもパテだらけのドカジャンで毎日行くから、ほか弁のおねちゃんも最初は笑ってたんですけど、途中から「大変ですね〜、大盛りにしときましたよ」とか同情されたりして。身体中、髪まで粉だらけになってましたからね。

成田レーシングの活動期間は19歳の終わりから23歳の終わりまでの約4年間。改造車作ってグラチャンにいって、雑誌の取材受けてのくり返し。作ってる時はホントにつらくて、大変だったけどいろんな意味で恵まれてたと思います。俺の名前は知らなくても、成田レーシングの名前は全国的に有名になれました。全員、表紙にもなったし、友人もいっぱいできたし。今思えば、野郎ばっかりで部活みたいなもんでしたね。

成田レーシングの歴代名車

・成田レーシングの作った改造車を紹介してください

フェアレディZ(Z31型):井戸端氏(1988年)
色がそんな感じだから通称ガマガエルZ(笑)。珍しい角パイプのタケヤリ4本出しです。ボンネットの6本出しマフラーはダミー。S30用のワークスに1mのデッパ、加工ホイールは14インチの加工ホイールF10J・R14Jの超極太サイズ。125クラウンと走ってました。

クレスタ(GX61型):遠藤氏(1988年)
FRPの扱い方を教えてくれた遠藤さんのGX61クレスタ。成田レーシングの守護神、三つ上の先輩です。ヘッドライトとテールランプは当時、出たばかりのGX81クレスタ用を移植。ボンネットのエアブラシはオードリーヘップバーンの映画「ティファニーで朝食を」です。おしゃれでしょう。

ブルーバード(910型):鷹森氏(1989年)
柳田選手の乗ったブルーバードのスーパーシルエットが見本。ただベース車がなかなか見つからず、突貫工事で作ったため、本人は仕上がりに満足していませんでした。そのくすぶった気持ちが、のちに作る星野インパルシルビアの原動力になります。

フェアレディZ(Z31型):井戸端氏(1989年)
フェラーリ・テスタロッサのケーニッヒをイメージして仕様変更。完全ワンオフでヤングオートの表紙(1989年2月号)を飾りました。そのあと製作し直して本物のテスタロッサのテールランプとフロントウインカーを移植。パーツ代だけで27万円もしました。

シルビア(S110型):鷹森氏(1992年)
190ブルに納得がいかなかった鷹森が、3ヶ月かけて作った星野インパル・シルビアシルエット。実は鷹森は18歳の時にガゼールに乗ってたんです。その頃に作りたいと思ってらしいんですが、学生だったし、お金もなくて断念。だからあの頃の夢を実現させたって感じです。確かにカッコ良かったですよ。完全燃焼したのか、ヤングオート(1993年3月号)の表紙を飾って、改造車を卒業しました。

ソアラ(GZ10型):遠藤氏(1993年)
ケーニッヒフェンダーはW126SECベンツ用なのでサイズが全然合わないので、詰めたり伸ばしたりしています。グリルのケーニッヒスペシャルのエンブレムは当時買うと30万円ぐらいしたのでFRPでワンオフ。ライトとテールは本物のベンツ用。これも30万円ぐらいしましたね。本当にこだわって作って、屋根を切った所もFRPでカバーして完成度を高めています。ヤングオートの表紙(1993年1月号)になりました。

改造車作りが大変で悪いことをするヒマがなかった

・女性にはモテましたか?(笑)

知り合いの板金屋さんの社長にいわれるんですよ。「青木くんの青春は地味だったね〜」って。世間がスキーだディスコだっていう時に年がら年中粉だらけですからね。女っ気もなしに男4人も5人も集まってアカギレだらけになってパテ削って。雑誌に載れば「成田レーシング、スゲ〜な」って言われるけど、家にヤクザに乗り込まれたこともあるし、街中では街宣車に囲まれちゃったこともあるし。いたずら電話なんか一年中かかってきましたから。ひがみなのか、生意気だと思ったのかわかりませんが。

だから世間が思っているほど、華々しいことなんかないですよ。グラチャンのほんの一瞬とか、雑誌に載ったときぐらいで。あとはひたすら作業ですから。パーツ代、ガソリン代、高速代を逆算していくとお金なんて何にも使えないんですよ。鷹森なんかお金なくて毎日カップラーメンばっかり食べててブツブツできちゃいましたからね。

言い方が難しいけど、悪いことなんてやってるヒマがなかったです。だから走りに行くことが、唯一の悪いことですかね。今、思うとたまに出張とかで高速道路のSAとかいくじゃないですか。うるさかっただろうな、申し訳なかったな〜、と思いますよね。大人になるとね、ごめんなさいと思います。

女にだってぜっんぜん、モテなかったですよ。当時はハイソカーブームの頃だから、もてたのはソアラとかマークⅡとかのフルエアロのちょいシャコタン。パールホワイトのね。タケヤリ・デッパに乗りたいなんてのは、当時でもよっぽどヤサグレた子じゃないと興味を持たないですよ。どこいったって話しかけてくるのは100%、男です。それでも写真撮らせてください、握手してくださいってのは嬉しかったですよ、やっぱり。

チバラギの起源は日産シルエットターボ軍団

・チバラギについて教えてください

チバラギの起源はトミカですよ。スカイライン、シルビア、ブルーバードの日産のシルエットターボ軍団。ただ本物のシルエットマシンのデッパって、実はそんなに長くないんですよ。それをオーバーに作ったのがチバラギですね。グラチャンに改造車が集まり始めたのは81年頃。ハコスカとかRX-3とか、セリカなんかがレースに出てて、そういう車を真似て、それこそレーサーレプリカですよね。それが主流だったはずなんですよ。それをどっかのタイミングでクラウンとかにワークスフェンダーを張る人が出てきた。でも4ドアセダンなんかレースに出てないじゃないですか。それがチバラギの始まりだと思うんですよ。もともとサバンナワークスだって、セリカワークスだって車種専用なのに「別のクルマにくっ付けちまうべ」っていうのがチバラギがスタートだと思いますね。

最初の頃はデッパもシルエットウイングもベニヤ板で作っている人も多かったです。実際、やっぱり鉄板ってなかなか素人では加工できないんですよ。ただ木は加工できるんで。ノコギリさえあれば、カンタンに作れるんですよね。ほとんど日曜大工ですから。よくあるパターンはベニヤ板で形を作って、その表面にトタンを巻くこと。ペランペランな看板に使うトタン巻いて、角を折って、色塗って。そうすると遠くから見ると全然、わかんないですよ。トタンはハサミで切れるから作れちゃうんです。

だからチバラギは作ろうと思えばに誰でも作れるから、敷居がすごい低いんです。誰でも同じ土俵に立つことができる。センスとモチベーションと、そういうところで勝負できる。チバラギの魅力はハコスカのように定番がないこと。ベース車なんて2万円でも3万円でもいい。そこからどうアレンジができるか、ですよね。ただ当時もカッコいいクルマとカッコ悪いクルマの差はあからさまにありました。俺なんかも最初はそうですけど。やっぱりチバラギといえど、バランスがすごく大事なんですよ。最初に作った時なんかは、俺らもわかんないから、とりあえず目立てばいいって極端に長くしたり、大きくしたりして(笑)。

そのバランスっていうのはデッパとかフェンダーの出し幅とか、車高の低さとか。チバラギでも今でも話題になるのが「蘭のLB」と「110番ケンメリ」。40年以上も前の車なのに、やっぱり語り注がれるよなうな車ってバランスがいいんです。今見てもカッコいいって思いますもん。シルエットを作ったからって全部カッコいいかっていうとそんなことないし、ちょっとした叩き出しだってカッコいいのはカッコいいし。最終的にチバラギだろうが、なんだろうが、車高含めたバランスが大事なんですよ。

まあ個人的には普段はエアロ車で、グラチャンの時だけデッパ・ワークスを付けるパターンも嫌いじゃないです。カッティングシートとかタケヤリとか、いかにもとって付けた感があるけど、あれもあれでチバラギの魅力ですから。いかに人との違いを出すか、目立つためのアイデアを考えるのって楽しいですからね。

タケヤリマフラーはチバラギの象徴みたいなもの

・青木さんにとってタケヤリマフラーとは?

あれほど単純で、あれほど目立つものはないと思いますよ。出し方とか、長さとか。ただ本数多くすればいいってもんじゃないから。後ろから出すだけじゃなく、サイド出し、ボンネット出し、室内貫通出し…とか。アメ細工みたいにいろんな形にしたり。発想がすごいですよね、笑っちゃう時ありますもんね。最近ではタケヤリマフラーっていうと浜松レーシングを思い出すんです。あの出し方とか、センスはある意味、芸術的ですよ。すごいです。

タケヤリって車のパーツじゃないですよね。デッパもシルエットウイングも一応、100歩譲ってスポイラーっていえるじゃないですか。だけど、タケヤリは完全に単なる鉄のパイプなんですよ。それがむき出しで車に付いて走ってるって、それだけで尋常じゃない迫力なんですよ。パイプが走ってるんですよ(笑)。常人には考えられないと思います。俺はタケヤリ大好き派なんで。トミカとガゼール以外に付けなかったクルマないんじゃないですかね。あれはさすがに違うかと思って。角度も大事なんですよ。俺は後ろに付ける場合はリアウイングと同じ角度にしてましたけど、人それぞれこだわりがあると思います。

あと個人的にあんまり長いの付けなかったですね。長いのも迫力あるんですけど、音が消えちゃうんですよ。やっぱり音をうるさくしたかったから、人の耳ぐらいにタケヤリの出口がくるようにして。俺の感覚ですけどね。だから2mぐらいですよ。2mを斜めにするとちょうど人間の身長くらいになるんです。俺はハス切りが好きなんで45度カットで。角度もウイングに合わせて45度で。冬になると白い煙がカッコ良くて。φ数とか素材にもよると思うんですけど、タケヤリって音が鳴くんです。「ビーッビーッ」っていう独特の排気音。金属が鳴く音っていうんですか、なんともいえない音がでますよね。

よくグラチャンの帰りとかにタケヤリが落っこってましたけど、やっぱり素人が溶接すると簡単に折れちゃうんですよ。俺は飛んでくのは絶対にイヤだったんでしっかり固定してました。知り合いの職人にガッチリ溶接してもらって、5人乗っても折れませんでしたよ。それで人を傷つけたりしたら最悪じゃないですか。それは気をつけてましたね。

個人的にタケヤリは俺的には族車になきゃならないものだと思っています。オマワリも絶対、タケヤリは許さねえだろうって。絶対にこれはやっちゃいけないものだ、付けてはいけないものだ、っていうのがタケヤリなんですよ。気合いというんじゃないけど、そこまで気持ちが入っているんだという証みたいなもの。あの頃の象徴みたいなものだと思いますね、タケヤリは。

「族車」の魅力はシャコタンでガンガンガンって走る

・改造車の魅力について教えてください

改造車、いや族車の定義は、俺の中ではオーバーフェンダーとシャコタンですね。要は幅広いフォルムで這いつくばって走る。だからフェンダーを広げずに落としている車は改造車とは呼べないと思うんです。俺の中では、ですよ。いつでも戻せるじゃないですか。

常に思っているんですけど族車はカスタムカーじゃないんだと。ただ今の時代がね。誰がつり上げたんだかわかんないんですけど、普通の人が手が出ない価格になっちゃってる。昔は3万円で買ってきて、屋根切ってみんなで楽しめた。金持ちもビンボー人も同じスタートラインに立てた。今はベース車だけで300万だ400万だっていう世界ですもんね。ホイール200万円でワンオフしたとか、ちょっとレベルが違うじゃないですか。結局は金持ちが勝っちゃう時代なのかなって。正統派のクラシックカーの世界じゃないんだから、なんか違うんじゃないかな、とは思いますね。

だから族車はね、クオリティを下げるとか、手を抜くとかじゃなくて、特有のニオイは残したい。飾っといて、エアサスとか組むのも俺はどうかと思うんですよ。否定してるわけじゃないですよ。あくまで自分の感覚だから。シャコタンにして、デッパガンガンガンッて走るのがいいんじゃないのって。ガシャンガシャンいいながら、変な動きしながら(笑)。段差をみんなで避けながらね、踏切避けながら、腹下をガッサガサにしながらね。デッパの塗装がめくれてるとか、ワークスがレーシングタイヤのはねた小石で塗装が剥げちゃうとかがいいんですよ。そういうのが族車なんじゃないかなって。

それでその族車の最たるものがチバラギで。俺の先輩が言ってたんですけど、ツライチだブリスターだっていっても、イベント会場で一番目立つのはやっぱりタケヤリ・デッパなんだと。人の目を集めるのはチバラギだと。今、アメリカとか海外でも人気があるらしいじゃないですか。この日本固有のタケヤリ・デッパの「チバラギ仕様」を超えるものはないんじゃないかと、個人的には思ってます。

機動隊と過激派と成田レーシング

・機動隊とケンカしたって本当ですか?

昔ね、成田レーシングが雑誌に出てる、テレビに出てるっていうんで、成田ってものすごい改造車がいると思って来た人がいたらしいんですよ。街中をいっぱい走っているイメージで(笑)。でも電車から降りたら1台も走ってないって。そりゃそうですよ。成田って空港があるから機動隊と警察が尋常じゃないんですよね。空港反対派がいっぱいいたから、おまわりの数がすごいんです。過激派もいっぱいいたし。街中はいつも機動隊のバスがウロウロしてたし、検問も毎日そこらじゅうでやってるし。

そんな中、タケヤリ・デッパでワーワー走ってたんですから、今思うとほんとにキチガイですね。実家の近くに空港の警備会社があって、そこに過激派からロケット弾が打ち込まれたんです。もうテレビにもでましたから。それで騒然としちゃって機動隊が毎日いるんですよ。その頃、ブルーシートの中でトミカ作ってて、機動隊が見に来ましたからね。武器作ってんじゃないかって。だから成田レーシングも俺たちだけで終わりです。別に暴走族じゃないから二代目なんていらないけど、いたとしても続かなかったでしょうね。いや、それが普通です(笑)。