ミスティ古橋氏インタビュー PART.1 青春編

竹の子族、暴走族、グラチャン
忙しすぎる青春時代をプレイバック

ローラー族、竹の子族、アイドル親衛隊、モトクロス、暴走族、グラチャン、ゼロヨンと興味のあることこはすべて経験し、忙しい10代を過ごした古橋さん。バイクショップを開店してからも、その発想力と大胆な行動力で大きな波紋を呼ぶことになる。その波乱万丈の生き様を聞いてきたぞ。

古橋祐二プロフィール
絶版バイク専門ショップ「ミスティ」代表。16歳の時に乗ったヨンフォアから始まり、GT380、ZⅡ、CB750、マッハ…と乗ったバイクの数知れず。その経験から得たノウハウと信頼性は業界随一。2014年から「富士河口湖オートジャンボリー」を開催し、バイクの楽しさを広める普及活動も行っている。岩城滉一氏やヒロミ氏とも交友があり、また映画「デメキン」やドラマ「湘南純愛組」などに車両協力も行う。人懐っこい笑顔がチャーミングな今もバイタリティあふれる56歳だ。

名前:古橋祐二
年齢:56歳(2021年5月現在)
生年月日:1965年3月17日
出身地:神奈川県川崎市
血液型:B型
好きな漫画:どらネコロック
好きな音楽:ディスコミュージック
好きな有名人:岩城滉一
座右の銘:だめでもともと、うまくいったら儲けもの

竹の子族に暴走族に忙しすぎる10代
バイクショップは「族仕様」で賛否両論

ローラー族!竹の子族!石野真子親衛隊!

・昔、竹の子族をやってたって聞きましたが本当ですか?

中学の時に竹の子で踊ってましたよ。川崎から毎週、原宿に通って。ただ、最初は原宿にスケボーをやりに行ってたんです。中一の頃かな、友達と2人で。そしたら当時、ZⅡに乗ってる先輩から「原宿に行くならクールスってチームがいるぞ。黒いバイクでたむろっているから、話かけてこいよ」って言われて。その友達と「クールスっているんだ。すげ〜な、カッコいいな〜」なんて言いながら探したんです。

ただ、見つからなくて。その時、歩行者天国のキディランドの真ん前にローラーの人たちがいたんですよ。まだ1組だけで。みんなリーゼントでキャッツアイかけて、黒い革ジャンで。カッコ良く見えましたよ〜。それで「踊りを教えてください」なんて話かけて。たぶん一番最初のローラーのチームだったんじゃないかな。それからは毎週、その人達に会いたくて革ジャン着て通ってました。夏なのに、大汗かきながら(笑)。

・そのままローラーには入らなかったんですか?

踊りとかは教えてもらってたんですけど、中学生だし、まともに相手にされてなかったっていうか。そしたらNHKが取材にきたんです。「青空ディスコ」という内容で。「何でここで踊ってんの?」とか話してて。放映されたら、次の週から真似する人がい〜っぱい増えて。もう毎週ごと増えてすごいことになって、警察から「ここで踊っちゃダメだ。代々木公園の前に行け」って言われた移動したんです。そこからはどんどんいろんなチームができて、すごいブームになっていきましたね。

その時の僕はローラーっていうか、真似事みたいな感じですよね。中二になるとディスコが大ブームになったんです。映画「サタデーナイトフィーバー」がすごく流行って。それで新宿のディスコに行くようになったら、原宿の「ブティック竹の子」の社長が自分の所の服を宣伝したいからって、竹の子の衣装を着させて新宿のディスコに行かせてたんですよ。それがすごく目立ってて。そしたらローラーの先輩たちが「原宿で一緒に踊ろうよ。日曜においでよ」なんて声をかけて。それからホコ天にお竹の子も来るようになったんです。

・なぜローラー族じゃなく、竹の子族だったんですか?

竹の子のほうがカッコ良く見えたんだもん(笑)。14歳、15歳の中学生には、あのハデな衣装と音楽がたまんないですよ。新しい感じだし。それにディスコに行ってると、竹の子の踊りばかりで、ローラーの曲は当たり前ですけど、かからないんです。やっぱり覚えたばっかりの踊りを踊りたいじゃないですか。僕は黒の長いチャイナっぽい衣装で踊ってましたね。

実は竹の子族の女の子ってヤンキーが多かったんですよ。だからかわいい子もすっごく多くて。髪型も当時の流行のカーリーとか華やかな印象ですよね。あとヒロ(沖田浩之)くんとも踊ってましたよ。友達が同じチームで。あの人、めっちゃカッコ良かったですよ〜。雰囲気っていうか、存在感が違いましたね。

・楽しそうな中学時代ですね。原宿のローラー族とか竹の子族の誕生を近くで見てるなんてうらやましいですよ。

楽しい所だけをかいつまめばね。でもケンカとかはしょっちゅうだから。僕はケンカは弱くて、いつもやられっぱなしでした(笑)。あの当時はみんなノラ犬みたいなもんで、目が合うとケンカになってましたから。どこに行っても気を抜けないっていうか、緊張感はあったかもしれない。

竹の子の時も小田急線で代々木八幡駅から代々木公園まで行ってたんですよ。すると駅にいるんですよ、ジョーカーズが。そのたむろしている前を歩かなきゃいけない。すると「オイ、コラ!どこだ!」なんて。でも毎週行くから、最終的には仲良くなっちゃいましたけどね。

あと石野真子の親衛隊もやってたんです。当時のアイドルの親衛隊はヤンキーが多かったんですけど、石野真子は特に有名でしたね。だから月曜は「紅白歌のベストテン」のために渋谷公会堂に行ってて。あとモトクロスのレースもやってました。

だから15歳、16歳の頃はほんと毎日が忙しかったですね。集会にももちろん行ってましたけど、まだバイクの免許がないから本気じゃないっていうか。その分、他の興味あることは全部やってました。ただ勉強だけはしませんでしたけどね。

赤いヨンフォアで川崎連盟の集会へ

・いわゆる暴走族を始めたのはいつ頃からですか?

中学の頃から集会にはけっこう行ってたんですよ。ただバイクの後ろっていうか、ケツとかだから。単純に運転して出たいじゃないですか、自分のバイクも欲しいし。でも集会で捕まるとすぐ鑑別。免許も取れなくなっちゃうんで、そこは我慢しました。

当時、集会で運転してて捕まると、即免許取り消しでしたからね。僕は誕生日が3月で、免許取れるのがみんなより遅いんですよ。友達は早くに免許取るやつも多いんですけど、夏の集会でみ〜んな捕まっちゃって。そんなのばっかだから、免許取るまでは…って感じで抑えてました。

まだ竹の子もやってましたね。ただ暴走族は竹の子禁止。他は知らないけど、川崎は全部ダメでしたね。だから隠れて行ってました。でもけっこう竹の子には知り合い多かったですけどね。ルート20とかアーリーキャッツとか。お互いに内緒にしてて。見つかると先輩にヤキ入れられちゃうんですよ。

土曜の夜とかも本当はディスコに行きたいけど、集会をバックレるとまたヤキを入れらるんで、隠れて行ったりして。本当に気合入れて走り始めたのは、免許を取った高一の終わりぐらいからですかね。自分のヨンフォアで集会に出るようになって。その頃には竹の子もやめてました。

・最初の愛車は赤いヨンフォアですね。

高一の頃、自分のバイクが欲しくて欲しくて。貯めた10万円でホンダCB400FOUR(ヨンフォア)を買いました。たまたま先輩の家の前でヨンフォアを見つけたんです。聞くとホンダに勤めている人で、ガレージに置いてあって新車みたいにピッカピカで。もう一目惚れでしたね。「大事に乗ってくれる?」って言われて「もちろん」って。譲ってもらったその日に集合管付けちゃいましたけど(笑)。ロケットカウル付けた時もあったけど、ごちゃごちゃにイジらず大切に乗りました。今までいろんなバイクに乗ったけど、一番楽しかったバイクですね。

・このヨンフォアにまたがった写真もカッコいいですね。16歳とは思えないほど大人びて見えます。

これは16歳のキャロルに憧れていた頃の写真です。革ジャンはキャロルがTV「リブヤング」に最初に出た時と同じエリ付き。これは親父が買ってくれたんですよ。あの頃で1万円だから、今だと10万円ぐらいですよ。白いマフラーは当時こんな風に巻くのが流行ってたんですよ。確かに今見ると16歳には見えませんね(笑)。いろいろ経験していたからかな。ヨンフォアも手に入れたばかりで、すごく嬉しかったのを覚えています。

16歳とは思えない大人びた表情の古橋さん。買ったばかりのヨンフォアと一緒に。
40年後、同じヨンフォアで。白のツナギはイベント時の古橋さんのトレードマーク。
・暴走族の頃の思い出を教えてください。

向ケ丘遊園の「メデューサ」ってチームに入ってました。ただ当時は関東連合とか全狂連、CRSとか連合で走ることが多くて、僕らも地元のチームでまとまって走ってました。川崎は特別で、川崎の暴走族だけで連盟を作ったんです。「川崎連盟」。川崎っていつも標的にされていたんですよ。

東京の連中は湘南に行くのに通るし、横浜は東京に行くのに通るし。川崎がちょうど関所みたいになってて。どうしても他からやられちゃうから、溝の口の「武蔵」ってチームの頭が、川崎の全部の暴走族の頭に話をつけてできたんです。だから川崎連盟の集会はものすごくデカかった。普通の集会でも1000台ぐらい集まってましたから。

川崎連盟「メデューサ」で走っていた頃。代を受け継ぎ、チームの顔役にとして引っ張っていた。

ケンカは日常茶飯事。乗ってるだけでからまれるから、湘南なんか行けなかったですね。藤沢街道でいっつも追っかけられてました。ビエロだとか、ホワイトナックルとか。ホント仲悪かったから。ある時、仲間とはぐれて、敵チームに囲まれた時は本気で死ぬかと思いましたよ。ビビっちゃって。骨から震えるって感覚は今でも忘れられない。

警察も当時はかなり荒っぽかったですよ。囲まれてパトカーに詰め込まれたり。駅前ロータリーだったんですけど、周りの人が「おまわり〜、やりすぎだろ〜」っていうぐらい殴られましたから。ヤクザからも目をつけられるし。本当、大変な時代でした。

GX61チェイサーをグラチャン仕様に

・タケヤリを立ててグラチャンにも行ってたって本当ですか?

昔の暴走族には決まりがあって16歳で代になって、17歳で後輩に譲って引退、そして18歳になったらクルマで復活。しばらくシャコタン乗って、19歳になったら必ずサーファーにならなきゃいけない。なぜか当時はそういう伝統があったんです。僕もサーファーになりましたから(笑)。

17歳でバイクを降りてからは、今度はクルマに夢中になりました。最初に買ったのが510ブルーバード。230の角目にしてオバフェン仕様にして。そのあとに赤のヨンメリ、ビートル、ファミリアに乗って、19歳の時にGX61チェイサーを買ったんです。

19歳の頃に乗ったワークのホイールにジャガーミラーを付けたシャコタン・ヨンメリ。

チェイサーは普段はおしゃれに乗って、グラチャンの日はサイド出しのタケヤリマフラーに自作シルエットウイング、スリック&ワークス、クレージュのカッティングシートでグラチャン仕様にしてました。まだ富士スピードウェイまで行けた頃。ただいつも御殿場インターで検問があって大変でしたね。

改造車専用の料金所が一ヶ所あって、出るとおまわりさんが両側にズラッ〜と立ってて。その真ん中の花道を走るんですよ。誰か一人でもキップを切られたらUターン。だいたい「帰れ!帰れ!」で戻されましたけどね。このチェイサーでは湘南に行ったり、正月に原宿の明治神宮に行ったり、思い出が多いクルマです。

クレージュ仕様のGX61チェイサーでグラチャンに。女の子ウケが良かった。
タケヤリは2本出しの枝分かれ。溶接して作るのが、意外に大変だったとか。
・古橋さんというと硬派なイメージだったので、ピンクのカッティングが意外な感じがします(笑)

全然、硬派じゃないっスよ。っていうか、昔から楽しそうなことはみんなやりたいっていうか。我慢できないっていうか。グラチャンも当時、すごく流行り始めてて、OBで集まって、楽しそうだしやろうかみたいな感じで。ウイングとかオバフェンをピンクにしたのも、クレージュのカッティングも実は女の子ウケを狙ってだし(笑)。20歳過ぎてもやってたから、さすがにまわりから「もう落ちつけよ」ってさんざん言われましたけどね。

バイクの楽しさを思い出して欲しい

・バイク屋さんを始めたきっかけを教えてください

高校を卒業して、整備の専門学校に行って、そのあとカーショップで修行してたんです。漠然と車関係の仕事をしたいな〜と思って。その頃はバイクにも乗ってなくて、ハコスカでゼロヨンにハマってました。RRCっていうゼロヨンレースに参戦しようとけっこう本気でしたね。ある時、そのカーショップにバイクの修理が入ってきて「お前、バイク好きだったろ」って整備をまかされたんです。

そこでバイクのメカニックをやっているうちに、修理を依頼してきたお店の方が独立してバイク屋さんをやるっていうんで、誘われて。そこは新車だけじゃなくZⅡとかヨンフォアとか古いバイクも扱ってて、やっぱり昔のバイクは楽しい〜と思ったのがきっかけといえばきっかけですかね。そこで10年働いて、独立しました。

カーショップでの修行中に乗っていたハコスカ。エンジンをいじってゼロヨン仕様に。

独立した理由は、やっぱり自分の人生なんでから自分が主役にならなくてどうする?と思って。あとZⅡとか扱ってると、やっぱりオリジナルパーツを作りたくなるんですよ。今、こんなマフラーがあれば絶対にカッコいいのにとか、こんなパーツがあれば売れるのにとか、アイデアがいっぱいあふれてくる。前の店はやっぱり車両販売がメインだから制約があったりし。そこで29歳の時に東京都目黒区にカスタムバイクショップ「ミスティ」をオープンさせたんです。

・最初の頃はかなりとがった経営姿勢だったとか?

最初の頃はクソ生意気でした。ミスターバイクBGっていうバイク誌に三段シートの中古バイクの広告を出したんですよ。普通のノーマル車が並んでる広告のなかに、もろ族車。そこにブラックエンペラーとか暴走族のステッカーを貼って。そしたら、当時のバイク屋さんから一斉に否定されたんです。そんなのバイク屋のやることじゃね〜って。今の僕の年齢ぐらいのバイク屋さんたちに。

集まりがあると「オメェのやってることは何だ!」って集中攻撃を受けて。そしたらこっちも「もうおっさん達の時代は終わったんだよ。世代交代って言葉知らね〜のか。これからは俺達の時代だよ。引退しろよ」っなんて言っちゃってさ。今、思うと本当に若気の至りで。ホントに謝りたい。もう土下座して、額から血が出るぐらい、謝りたいです。

暴走族をやりたかったわけじゃないんですよ。暴走しようっていうわけでもない。ただ昔、乗ってた連中にバイクに戻って欲しかったんですよね。あんなにいっぱいいたのに、だ〜れも乗ってない。台風の日だって、集会やってたのに(笑)。

そういう人達に入りやすい店にしたいな、っていうのはありました。だから暴走族とかキャロルのステッカー貼って、懐かしいな〜、また乗ってみようかな〜って思わせたかったんです。だから三段シート、風防、絞りハンもあえてやってたし。ただ本当は自分でもかなりの冒険でした。

いやがらせの電話とかものすごかったですもん。電話に出ると「てめ〜よ〜」って。中には「これから行くから待ってろ」とか。来たためしはないですけどね。だから電話に出るのがやんなっちゃてね。一人でみんな対応して。オープンして最初の1ヶ月ぐらいはそんなのばっか。

でも時々、電話とか手紙とかで「頑張ってください」とか「応援してます」とか言ってくれる人がいて。今みたいにメールもネットもない時代だったから、すごくありがたくて嬉しかったですよ。富士ジャンボリーとかもそうだけど、もっと頑張ろう、もっと我慢しようと思いましたね。

旧車會のきっかけは大黒ミーティング?

・旧車會もミスティから始まったと聞きましたが?

オープン当初、バイク雑誌と一緒に横浜の大黒パーキングで「古チューン・ミーティング」っていうのを企画したんです。暴走族じゃなくて「昔走っていた人達と昔走っていたような仕様のバイクで集まろう」って感じで。25年も前だからまだ旧車會って言葉もない頃ですね。それを日曜日の昼間にやってたんですよ。かなり盛り上がりましたね。

何度かやっているうちに「大黒から城ヶ島まで走りませんか?」ってなって。集まるだけじゃなく、走るようにもなっていって。直接的に旧車會のルーツかはわかりませんけど、昔走ってたような仕様で集まる、っていう意味ではそうかもしれませんね。バイク雑誌に掲載されて、それが全国に広がったのも大きいと思います。

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住所:神奈川県横浜市都筑区大熊町29−1
営業時間:10:00〜20:00
定休日:水曜日

ZやCBなど絶版車カスタムが大得意
自分だけのマシンを造ってくれる

古橋氏が29歳の時にオープン。25年以上の歴史と経験で、ZⅡやヨンフォア、CB750などの絶版車のレストア及びカスタムを得意とする。集合マフラーやしぼりハンなどオリジナルパーツの人気も高く、信頼性も高い。改造車専門と思われがちだが、バイクの大きさや新車、中古車問わず手がけており、ビギナーからベテランまで豊富な客層を得ている。遠く地方からツーリングがてら遊びにくるお客さんも多いとのこと。もちろんカスタムに関しても、親身になってどこにもない「自分だけマシン」を造ってくれる。