日本一有名なシャコタン乗り登場! 伝説の成田レーシング PART.1
伝説の成田レーシングを牽引した男
青木氏が当時の改造車事情を語る!
チバラギ全盛期の1990年頃に「日本一有名なシャコタン乗り」と言われた男、青木美男さん(千葉県)にインタビュー。今だから話せる当時の裏話から、グラチャンの醍醐味、これまで作ってきた改造車への思いなどについてたっぷり語ってもらいました。
青木美男プロフィール
1968年2月生まれ、53歳(2021年5月現在)。生まれも育ちも千葉県成田市。1980年後半の改造車の世界を引っ張り、そして盛り上げてきた有名チーム「成田レーシング」を主宰。これまで作ってきた改造車は30台以上。現在はボディチューニングファクトリー「NRS」(成田レーシングスペシャルズ)代表。根っからの改造車好き。クルマ作りに対する熱い気持ちと飽くなく探究心、そしてそのズバ抜けた行動力で「日本一有名なシャコタン乗り」と呼ばれた。「青春の9割以上が改造車」と言い切る男。現在でも自身の秘密工場で改造車を作り続けている。
グラチャンという存在を知った中二の頃
・改造車というか、クルマに興味をもったのはいつ頃ですか?
地元の国道の51号線をたまたま信号待ちしていた時に、変にハネてくる車がいたんですよ。変な動きをする以上に背がひくい国産車が。あれは何なんだと。それがたぶん小学四〜五年生なんですよ。なんか凄いな〜って記憶だけは残ってて。
中学に入って地元でも頻繁に見るようになり。まあそういうクルマを探すように見ますよね。そしたら中学の近所にたまたまケンメリの4枚がいて。黄色と青に塗ったシャコタンがずっと置きっぱなしだったんですよ。オーバーフェンダーも何もついてないシャコタンなんですけど、うわ〜スゲ〜な、カッコイイなと思って。あとシャコタンでリアウィングが付いた茶色のローレルメダリストもいてカメラ持って「撮らしてもらっていいですか」ってもうカメラ小僧ですよ。チャリンコで探しまわってましたね。
そしたら近所のGSに黒い430があって。当時新車ですよ。クレーガー履いてシャコタンでサイドステップだけ付いてて。それが俺の中でハンパなく入ってきましたね。もちろん写真撮らせてもらって。そこからいろいろ調べ始めて、あのクルマは430セドリックというクルマだと。その時から俺は免許取ったら430を買うと決めたんです。それが中二の頃ですよ。
その頃にすごい改造車が載ってる雑誌を見つけたんです。当時ホリデーオートの増刊かヤングオートか覚えてないんですけど。それを見て、これはスゲ〜って。調べていくうちに富士スピードウェイに「グラチャン」っていうレースがあるんだと。その時には関東や静岡からめちゃくちゃ改造車が集まってくると。P18っていう改造車専用の駐車場があって、そこには何百台の改造車がいるらしい。
そりゃあ、ものすごく行きたいじゃないですか。でも中二じゃ行けないじゃないですか。読んでいくと夜中の高速を走っていくらしいと。それで夜な夜な高速道路の入り口ん所で待ってたりとか。もちろんチャリンコでですよ。でも何時に来るかもわかんないから、夜中まで待ってても、全然走ってなかったりして。
改造車の世界を知って、頭の中はグラチャン一色に
・改造費のためにバイトで100万円を貯めたとか?
高校に入るくらいになって、友達の兄貴にフレッシュマンレースに連れてってもらって、今でも付き合いがある先輩です。その頃はグラチャン以外のレースでも集まってて。ただもう取り締まりで富士スピードウェイまで行けなくて、途中の海老名SAに入って。それでもかなり盛り上がっててヤングオートの表紙にもなったL-POWERローレルやボンネット出しエントツのR30とか有名車がいっぱいいて。もう鼻血が出るほど興奮しちゃって興奮しちゃって(笑)。幼稚園の子供が初めてディズニーランドに連れて行ってもらったようなもんですよ。まさに別世界。すごかったです。
それからはもう頭の中は完全にグラチャン一色ですよね。そしたら先輩から「車イジるのは金かかるぞ〜」っていわれて。 「タイヤもレーシングタイヤっていって1回〜2回グラチャンに行ったら終わっちゃうぞ」とか。1本当時3万円ぐらいだったから「え〜1回、2回行って12万ですか」なんて。そこから、こりゃバイトしなきゃいけないと。そこからもうバイトざんまいですよ。
高一から夢中になって働きました。夏は土方ですね。鉄骨組んでいましたよ。普段は夜にラーメン屋の皿洗い。金になると聞けば何でもやりましたね。高校3年間で100万円貯めました。ただその100万円は1週間でなくなりましたけど。430セドリックを買ってタイヤ、エアロ、ワークス、足まわり、マフラー…とか全部パーツ代に消えました。ただそのために貯めていたから、何とも思わなかったですね。嬉しかったっていう記憶しかないです。
あの頃はホイールを変えただけでも暴走族!?
・あの頃は改造車に乗るのも大変でしたよね?
女に興味がなかったわけじゃないですけど、当時はどうでもよかった。サッカーとか野球とかと違って、世間的にアウトロー的な認められない世界。それこそタケヤリマフラー、デッパ、暴走族イコール悪いことしてるやつ…何ならもうキチガイ扱いですよ。最低の人間のやることだ、みたいな。
その後にカスタムカーとかドレスアップカーとか、それこそ公認車なんてのも出てきてて、車をイジるのは趣味の一環だ、なんていう風になったけど、あの頃はアルミホイールにしただけで、暴走族だっていわれた時代ですよ。車高落とすだけで何やってんだっていう時代にタケヤリ・デッパですからね。
昔、なんかの雑誌のインタビューで「グラチャンで捕まるのビビってんならやんなきゃいいのに」って言ったんですよ。その時はいろいろ言われましたよ。調子こいてんじゃね〜とか。さすがに今はタケヤリ・デッパで捕まるのはイヤですよ。恥ずかしいし、仕事だってそれなりの立場になってるし。でもあの当時は、20歳〜23歳の頃はもうぜんぜん関係ないよ、と。おまわりビビってんならグラチャン来るんじゃないよ、ぐらいの気持ちでしたね。
ある時のグラチャンなんか、1日で3回キップ切られてことがありましたからね。東関(東関東自動車道)で捕まって、首都高で捕まって、東名で捕まって。それでも帰らなかったですもんね。警官に帰れっ!て言われ強制的に降ろされて。でも下道で次の高速の入り口を目指しましたから。一緒にいた鷹森なんて機動隊に捕まって安全靴でボッコボコにされて、血だらけになりながらも向かってましたよ。
同じ仕様で2回以上は絶対に走らないが信条
・グラチャン仕様のこだわりってありましたか?
自分のこだわりでは同じ仕様では2回以上走らないというのがあるんです。1回だと見てない人もいるかと思って、だから2回。車を作ってみて、それが自分の理想の最終形という人はいいと思うんですけど、自分は違ってて。最初はね、ベニヤ板とかカッティングシートでしたけど、FRPの技術かも教わっていってやり方も広がって。もちろん試行錯誤ですよね。何度も失敗しながら作ってました。自例えばデッパがなかったら付けようとか、竹ヤリが2本だったら4本にしようとか、色を変えるとか、必ず何かしら手を加えてましたね。
なんでかっていうと自分の終着点がなかったんですよ。これでもうカンペキだっていうのがない。だから出来上がったばかりは良かったと思うんです。ただ時間が経って冷静にみると、ここもっとこうしたらカッコ良くなるんじゃないか、というのがでてくるんです。それを何度もやってみてやってみて自分の中でこのクルマはこれ以上やることがないな、と思ったらそのクルマはもう終わり。そして新しいベース車を持ってきて、次はどんな仕様にしようかな、繰り返しですね。
仲間に会えるのがグラチャンの醍醐味
・グラチャンに夢中になった理由を教えてください
グラチャンの楽しみは作った車を見せ合うのはもちろんなんですけど、仲間と会えるのもすげ〜嬉しいんですよ。当時はインターネットもないし、携帯もない。だからみんな同じぐらいの時間に集まるんです、暗黙の了解で。たまに首都高とかで川口線のほうから偶然にも埼玉の奴らに会うと、お互いめちゃくちゃ嬉しいですよ。うぉ〜って感じで。
暴走族とかだと地域が違うとケンカになることもあったんでしょうけど、グラチャンは違うんですよね。お互いがそれを求めて集まるから。どこどこで誰々に会ったったとか、料金所に入ると知り合い溜まってたとか。もうそれらぜんぶが嬉しくて。あれはもうたまんないですね。
これは今の携帯があって、インターネットのある時代の子にはわかんないと思います。ないからこそ嬉しさが100倍、200倍になるっていうか。今は会えて当たり前じゃないですか。ただ当時は家を出たらもう連絡のしようがないじゃないですか。その状態で出会うという確率の低さ。途中で捕まったり、壊れたりいろいろあるわけですよ。でも状況が読めないわけじゃないですか。そんな中で仲間に会えた時の感動というか、なんというか。これはあの当時、あの状況でやった人じゃないと伝わんないかもしれませんね。
今ならイベントができて、チャリティーもやってるし、警察もゆるい所があって「空ぶかしするんじゃないぞ」ぐらいで許してくれて。行けばみんなで会えて、コンテストなんかもあって。これはこれで健全だし、いいと思うんです。ただあの当時そんなのなかったし。今、思い出してもあの海老名SAに入っていく時のドキドキ感、そこにグラチャンマシンがいっぱいいた時の嬉しさは尋常じゃないですよ。
オープンはグラチャンマシンの最後の手段
・なんで最後はオープンカーになっちゃうんでしょう?
屋根切るのって最後の手段なんですよね。グラチャンで作る車ってだいたい車検も少ないし、車検を取れる車でもないし。そうなると最終的には、屋根切って最後にグラチャン行って解体屋へ積んじゃうっていうパターン。当時は改造車を売るって感覚がなかったんです。イジればイジるほど、どんどん安くなる。どんなにキレイに作っても二足三文ですよ。だいたいフェンダー切ってますから捕まったら強制廃車です。どうせ廃車になるならって、結局は屋根切っちゃうんです。
今まで10台以上の屋根切りましたよ。自分の車は71マークⅡを2台切って、71クレスタ切って、20ソアラに430、61クレスタ、ブタ目のマークⅡ、レパードの8台かな。知り合いの車を入れたら、わかんないぐらい。屋根っていうか、ピラー部分はグラインダーで切るんですよ。最初の頃はフェンダーカットしていて、配線切ってエンジンがかかんなかったり、いろいろと失敗もしました。
でも何台か切っていくうちに、ここからここまでなら大丈夫とか、わかってくるんですよね。4ドアとかだとフレームがたわんできて、ドアが閉まらなくなることもあるんです。だから俺なんかは後ろのドアを溶接しちゃいましたね。ワークス張ってるからどっちみち開かないし。冬なんか最悪ですよ。雪なんか降ってきたらハンパじゃなく寒いです。運転席や助手席はヒーターがあるからまだましですけど、リアシートはもう地獄です(笑)。泥棒みたいな目出し帽をかぶってきてる奴もいましたね。
ただ夏のオープンは気持ちいいですよ。俺ら「暴走海水浴」ってやってたんです。房総半島に海水浴に行くので暴走海水浴。房総と暴走にかけてね。最初は4〜5台で行って海の家でちょっと遊んでたんです。そのうち仲間が聞きつけて、一緒に連れてってみたいになって。多い時で車とバイクで40台ぐらい。九十九里の大網白里って海水浴場に行ってたんですよ。最初はトミカシルエットでいってますから(笑)。
24歳の頃からだから10回ぐらいやったのかな。その頃はもうグラチャンもなくなってて、もう夏ぐらいしかクルマ作ってなかったんです。だからオープンなんですよ。毎年、3万円ぐらいで買ってきて屋根切って。九十九里の波乗り道路を走ると、本当に気持ちがいいんですよね〜。あれは楽しかったな〜。別に暴走海水浴っていってるけど本当に走したいわけじゃないか、ちゃんと信号も守ってたし。ただ、中には飲酒する奴らもでてきて、よくないよなってやめたんですよ。
青木さんの歴代改造車ヒストリー
・青木さんがこれまで作った改造車を紹介してください
セドリック(430型):18歳(1985年)
グラチャンも最初の頃は目立てばいいと思っていましたからね。。バランスもクソもない。カッコ良いとかカッコ悪いとかどうでもいい。目立てば良かったんです。カラムーョヒーヒーの頃ですよ。これフェンダーはトタン。塗装はしてなくてカッティングシート、ハネとかは全部ベニヤ板です。。あの高校の時に100万円貯めて買った430ですよ。結局、事故って9ヶ月しか乗れませんでした。
クラウンRS-G(120型):20歳(1988年)
次は何に乗るか半年間悩んで、新車で120クラウンを買いました。忘れもしない金額463万円、19歳、フルローンですよ。でもすぐにワークス張ってましたからね。親はもう呆れてましたね、頭おかしいって。この頃から自分の中で変化があったんです。目立てばいいやからスゴイ車+カッコ良い車、「誰が見てもキレイに仕上がってるね」って意識が変わりました。ちょうどこの頃、FRPの技術を遠藤さんに教えてもらって、自分の思うような形を作れるようになったんです。 グラチャンではフラッシュの嵐でした。
実はこの時のシルエットフェンダーはボディ表面には一つも穴をあけていないんです。さすがに新車のボディに穴をあけられませんでした。フェンダーとボンネットのすき間、トランクのすき間、ドアのすき間にシルエットフェンダーを挟み込んだんです。ただ穴はあけなかったけど、結局パーツがこすれてガリガリになっちゃって、売る時は全塗装しましたけど。
それと中学の頃からの憧れだったヤングオートの表紙(1989年4月号)になったのも本当に嬉しかったですね。最初は現実的じゃなかったんですけど、だんだんいろいろやってきて自分でも頑張ればなれるのかなって。それが編集部から連絡があって、表紙車に選んでもらって。いや〜、死ぬほど嬉しかったですよ。20歳で人生の夢かなっちゃうみたいな。普通なれないですから。全国で何百台、何千台ってある中で、しかも年12台しか選ばれないんですから。
レパード(F30型):21歳(1989年)
「みんなで1台作ろうよ」と遠藤さんと井戸端と俺の3人で金を出し合って作ったレパードのオープン。この頃、3000万円以上する本物のケーニッヒベンツの電動オープンがいて、それ意識です。前後のスポイラーはアウトフォルムのソアラ用。フェンダーはケーニッヒ仕様のワンオフブリスターです。これに乗ってグラチャンに行ってました。
ソアラ2800GT(GZ10型):22歳(1990年)
そして今度はソアラ。知り合いから6万円で買った2800GT前期の56年式。顔面はクラウンの前期の顔を入れて、本当はセルシオの顔面を入れたかったんですけど、高くて買えなくて。それでフェンダーは当時、流行っていたケーニッヒに。リアはラングレーテールの引っ込み6連。6万で買った車に改造費230万円かけましたからね。全部自作なんですけど、パーツ代が高くて。公認車だから普段から乗ってました。これはオートワークスの表紙にもなりました。
メルセデス・ベンツ500SEL(W126型):23歳(1991年)
公認ケーニッヒ・ソアラを手放したあとに手に入れたケーニッヒ・ベンツ。もちろん公認を取っていたので、普通に乗ってました。当時、ケーニッヒが大人気だったし、自分も大好きなんです。あの独特のワイドフェンダーは、まさにケーニッヒならではのもの。ドイツのビリー・ケーニッヒを今でも尊敬してますよ。NRS(成田レーシングスペシャルズ)のスペシャルズはケーニッヒ・スペシャルズからとったものなんです。当時、ワインレッドのケーニッヒ・ベンツなんていなかったので、これも目立ちました。
セドリック(430型):(23歳:1991年)
430オープンの爆発カラー。430をまたキレイに乗ろうと思って買ってきたんですけど、事故っちゃって。前もぐっちゃりいっちゃって、いいやもう屋根切っちゃうべ、ロングノーズにしちゃうべと。持っているパーツは全部付けました。ライトは910ブルーバード、テールは81クレスタ。何かの拍子にフェンダーが割れ、直すついでに金赤ツートンに。金色のせいでみんなから「観音様」と呼ばれてました。
スカイラインGT-EX(R30型):24歳(1992年)
R30はたまたま先輩から7万円で譲ってもらって。俺の中でR30といったらトミカシルエットですよ。もうそれしかないですよ。そして地元の先輩の出山さんのスカイラインRS。もう亡くなっちゃいましたけど、出山さんのスカイラインRSは別格ですから。デッパとでかいハネは外してましたけど、普段からこれで走ってましたからね。まだ俺は高校生だったんで、もうビックリですよ。 ヤングオートの表紙や映画「シャコタン・ブギ」に出たりと、かなり有名な車でした。それで、これは気合入れるしかないと。当時は作る場所もなくて、家の門の前で作ってました。屋根もないですから。ほんとの青空ですよ。ブルーシートの中に脚立を4つ立ててテントみたいにして、その中に作業灯入れて、ずっとパテ削りしてました。
こだわりはトミカのコピーではないってこと。似せたいけれども、やっぱりレーシングカーって少し不格好な部分があるんですよ。もちろん速く走るためであり、そういう風に作ってあるんです。でもデッパはもう少し長い方がカッコいいでしょ、とか、ロングテールにしたほうがバランスいいでしょ、とか。やっぱり族車だからタイヤは14インチでしょ、とか。ウイングの形も全然違いますよ。本物はカッコ悪いんですもん。ただ自分なりに実車をテイストは再現したつもりです。苦労の甲斐あってヤングオート(1992年3月号)とオートワークスでダブル表紙にもなりました。 非常に思い出深い1台です。
ローレル(C230型):24歳(1992年)
当時はなんか昔の車をリメイクするのが流行ってたんです。そしたらたまたまローレルがあって。友人の知り合いのおばちゃんが捨てるからってもらってきて。そうしたらもうこれはL-POWERパワーしかないでしょ(笑)。中坊の頃、本物をフレッシュマンで見てるし。色も同じツートンでワークス張って、公認も自分で取りました。この型のローレルはこの仕様が一番カッコいいと思います。
クレスタ(GX61型):27歳(1995年)
他のメンバーが改造車作りをやめたので、個人として製作。だからフロントガラスに「成田レーシング」ではなく「ルート51」と貼っています。仕様はジャパンのバンパー、910ブルーバード、チェリーテール、サバンナワークスパテ埋め。海水浴に行くために作った車で、その時しか乗ってません。ヤンキー列風隊 なんぼのもんじゃい」というVシネマがあって、その撮影が茨城でやるので来てくれっていわれて。撮影が土曜日だったからから夜撮影して、そのまま海に行きましたよ。
マークⅡ(GX71型):28歳(1996年)
これは宇都宮レーシングのさっちんのクルマだったんです。ピンクと金のマーク・。ライトを71チェイサーにしてますけど、本当はマークⅡなんですよ。これも暴走海水浴用に作りました。セリカワークスパテ埋めにロングノーズ、50・デッパ、セブンハネパテ埋め。成田市から海水浴場にまで1時間位なんですけど、今回もそれだけ走って知り合いに3万円ぐらいで売っちゃいました。
チェイサー(MX40型):29歳(1997年)
雑誌で見てカッコいいな〜と思ったチェイサーをレプリカ。車高の低さ、ブリスターを呼べるくらいにパテが盛ってあるサバンナワークス、パテ埋めしたカタヤマハネ、色はシルバーみたいな水色みたいなメタリック、なんとも言えないバランスがめちゃくちゃカッコ良かった。ブタ目にはこれが一番だと思います。でも最後はシルエットでチバラギ仕様にしちゃいました。
プレジデント(JG50型):29歳(1997年)
雑誌のVIPCARの広告にインシュランスが「プレジのエアロ作る予定!ロングのデモカー募集!」って載ってたんです。電話してみたら近くなので、プレジを貸してデモ車になったんですよ。何回か撮影にも貸し出して、実際広告にも載ってますよ。そのあとジャガーっぽくしたくてワインレッドに塗装して、さらにオーバーフェンダーに加工して。VIPCARの表紙にもなりました。当時の表紙車は投票で決まるやり方で、選ばれたのはやっぱり嬉しかったですね。
メルセデス・ベンツ500SEL(W140型):30歳(1998年)
30歳過ぎたら大人のドレスアップでしょ、ってことで結局また会社に憧れ140ベンツです。でもやっぱりフェンダーを出したくなって、たまたま知り合いになったエボリューションの桜田社長に「車を貸してくれるなら、作るよ」って言ってくれたんですよ。その頃の桜田さんのセンスは、僕も一目置いてましたから。
出来上がった時のブリスターフェンダーはカッコ良かったですよ〜。ホイールはイタリアのOZフッツーラ特注品。F9.5J・R11.5Jのエボスペック、4本で90万。でも全然惜しくはなかったですね。デモ車の時は黒だったんですが、そのあとパールホワイトに全塗装して、フロントバンパーを好みに加工しました。今でも大好きな1台です。
サバンナRX-7(FC3S):33歳(2001年)
基本的4ドアセダンが好きなんですが、一度くらいスポーツカーをイジりたいと思い購入。ワイドフェンダーはフェラーリを意識しました。テールランプはジャパン、リアゲートはガラスを外してアイローネゲートを自作しました。ヤングオートの最終号(2001年10月号)の表紙になったのも思い出です。